【3才10ヶ月から・・・】

 

父は頑固な会社員。

母は温和で手作り得意な専業主婦。

中流家庭の二人姉妹の長女として生まれ

両親の愛を注がれて育った。

 

父はこよなくマンドリンを愛し当時からバンド活動もしていた。

母はサラサーティの『チゴイネルワイゼン』が大好きだった。

「つまらぬおもちゃを与えるよりピアノを与えよう」と言う

両親の教育方針のひとつから

山梨の保育園に入っていたヤマハ音楽教室で

3才10ヶ月からグループレッスンをスタートする。

 

 

【まんまと両親 特に母の策略にはまっていった私】

 

とにかくピアノ(オルガン)が好きで好きで…

保育園でお昼の時間こっそり起こされ、

ヤマハ音楽教室のレッスンしを受けるのが優越感だった。

 

毎日、母が付き添ってくれて練習。

弾けるまでピアノに向かい合った。

弾けなくて悔しくて泣いていた。

全部弾けたときは、嬉しくて泣いた。

母は、アプローチがうまくて、終わると私に10円をくれて

近くの駄菓子屋へ

まんまと母の策に乗っかりみるみる上達

 

学年を超えたグループ編成だったが、

その中で私は最年少。

それでも、落ちこぼれることなく

グループについていけていた。

『小さいのによく指が回るわね。』

『すぐ覚えられちゃうね。』

『小さいのにすごいわね。』

 

そんなことを言われ、子供ながらに自信をつけて行く。 

 

【ピアノの先生が義理の叔母になる!】

 

なんとヤマハ音楽教室の先生が・・・

母の弟と結婚し義理の叔母になった。

 

節子叔母は、車の運転ができなかった母と私を

レッスンが終わってから母の実家まで送ってくれ

そこで叔父と恋に落ちたらしい。

 

この素敵な出来事は・・・

小さいながらにピアノの先生への憧れを身近に感じた瞬間だった。

叔母は美しく出来る女性だった。

 

 

【両親の起業で・・・ 】

 

年長の時、妹がが生まれ、両親が起業する。

両親が急に忙しくなり、私は構ってもらえなくなった。

ご飯も自分で作る羽目に。

 

でもこのころにはピアノ練習の習慣もついていたので

元気でおてんばで お節介な私は・・・

自分で何から何までできるようになっているつもりだった。

 

このことで甲府市から御坂町に引っ越す事になり

新しいピアノの先生が見つかるまで2ヶ月ほどブランクがありピアノの先生も変わった。

自分は凄くピアノが弾けると思っていたが

初めてのレッスンでバイエル程度の曲を見せられ

弾くように言われたが

すらすら弾けると思いきや

たどたどに。

 

ピアノの先生はそうでなかったが

自分自身がこの現実に動揺し、ショックを受けてしまった。

 

 

【自分の気持ちを再び上げたものは・・・】

 

親に構って貰えず、新しいピアノの先生の前で思うように弾けず

どん底の思いの年長から小学校1年生になっていた私に・・・

 

誕生日の日 帰宅すると・・・

アップライトピアノがお部屋にドーンッ!

あの時の感動・喜びは忘れられない!

 

小学校入学し田舎で学年1クラス23人。

ピアノを弾けるのは私だけ。

2年から伴奏の役割などをするようになり、

弾けないとこれまた悔しくて夜中まで練習。

なんと練習のしすぎで怒られた。

 

運動会で鼓笛隊があり、自分は花形の指揮者をさせてもらったことが

とても嬉しかった。 

 

 

 

【ライバル出現】

 

今までライバル不在で鼻が伸びていた自分

ところが中学になり一気に6クラスに。

当然ピアノを弾ける子もいて

急にライバルが出現

 

たまたま仲良くなり、その後も親友となった友が

一番ピアノが上手く

自分は2番手の位置に。

 

好敵手とはまさに字のごとく

2人で切磋琢磨しながら

伴奏の役割も分け合い

充実した中学校生活を送る。

 

親友と合唱部に入り、コンクール参加

そこそこの成績を残す

又、当時 吹奏楽部がなかった田舎の中学校に

3年になっていた私たち合唱部の雄志で吹奏楽部を立ち上げた。

私はクラリネットを担当し6人構成の吹奏楽部をはじめた。

 

親友は県下一有名なピアノの先生に習っていた。

側で見ていても気の毒になるような厳しいレッスンに耐えていた。

 

私は、音大を卒業し教会をされているピアノの先生と 

そのご主人の牧師様に(多分、音大は卒業されてない)。

慈愛に満ちた人間的にも尊敬できる先生方だった。

ピアノが嫌になることはなかった。

 

 

【高校受験】

 

ピアノの先生である叔母から東京の音高へと誘われたが

友達関係などもあり地元の高校へ。

なんと親友と同じ高校に入ることになった。

 

高校では本当はバスケ部に入りたかったが

突き指すると困るので、陸上部へ。

音大受験もなかなか決められずに、悩んでいた。

 

親友は、

話も上手

話をしっかり聞いてくれた

ピアノも上手でパッと弾けた

ピアノでは、勝てないなとなんとなく感じていた

性格も良く、いいことばかりでなく本音でも話してくれた

 

そんな彼女が音大受験を諦めると打ち明けてくれときは

本当にびっくりした。

のちにピアノ教師として考えさせられる出来事だった。

 

 

【大学時代】

 

専門性の高い先生につかないと音大にはいってはいけないという

思い込みができてしまっていた。

そんなことから、知らないうちに劣等感が増してきて、

周りと自分を比べてしまうことが増えていった。

 

その時に自分はどうするべきか考え、

音大受験をやめ、一般大学に進む決心をする。

 

しかし、ピアノをやめるという選択肢はなく

ピアノは、ご飯を食べるのと同じ感覚だった。

 

中学の時より、海外に憧れ、

英語が大好きで、得意だったこともあり英文科を目指す。

急に方向転換。

受験は厳しく、何校も受けるが最終的に英文科の私立に入る

 

失意の中、大学の寮へ

ところが友人関係に恵まれ、楽しい学園生活が!

 

まさかの門限破り

新宿へディスコに行くも、時間ギリギリに帰宅。

まさかの5分間に合わず

焦って同部屋の友人に裏工作を頼むものの失敗してバレてしまい

重い懲罰が。

数ヶ月の外泊禁止令

電話当番

草むしり

トイレ掃除

『たった五分でひどすぎる』

とシンデレラ真っ青のこれも良き思い出に!

 

ピアノとのご縁も続き

なぜだか練習に困ることはなかった

大学に行けば、どこかにピアノがおいてあり

下宿先の大家さんのおじいちゃんのお部屋にピアノがあり

弾くとおじいちゃんが喜んでくれる状態だった。

 

なぜだかピアノはずっと身近に存在していた。

 

 

【就職】

 

就職は、英語を活かした会社に入り、海外との取引をすることに。

業績悪化で2年で希望退社。

 

やはり自分にはピアノか?という思いがフツフツと沸き起こり、

1年頑張ってグレード習得。

勿論、先生にも師事し再びピアノ・音楽を勉強。

東京まで学びに行く。

日本ビクター株式会社

  音楽教室ピアノ講師として7年間勤務。

    のべ50人の生徒さんと出会う。

並行して英語の塾講師にも

 

自分の可能性を試してみたくて色々チャレンジした。

 

 

【結婚 子育て 自宅ピアノ教室開業】

 

27歳の時に両親の反対を押し切って(笑)・・・

農家の一人息子と結婚。

その後、娘3人に恵まれる

子ども3人ともなると・・・超多忙。

実家の母・義理の父母・主人に

子どもの面倒をみてもらいらがら・・・

なんとか自分の居場所であるピアノ講師を続ける事が出来た。

 

3人目出産時に楽器店を退社

自宅でのレッスンを開始する

 

そして・・・

尊敬する中学校の恩師に勧められていた

(独身の時から子育て中も根気よく勧めてくれた)

公立中学校の英語教諭にもチャレンジ・合格。

なんと37歳の時だった。

期間採用教員として・・・

クラス担任

知的障害クラス担任

 

15年勤め上げた。

土日には自宅でピアノ教室を続けていたので・・・

覚悟して始めたこととはいえ・・・ヘロヘロだった。

 

この頃より海外にも足繁く行くようになった。

ヘロヘロとは言え、海外となると俄然元気になり・・・

ニューヨーク

ハワイ

グアム

オーストラリア

カナダ

イギリス

スイス

ドイツ

フランス

 

1人旅に始まり

友人と行くことも

子供が大きくなってからは

1人づつ連れて行ったりと・・・

 

【現在】

 

ピアノ講師

公立学校勤務との両立

3人の子育て

農家の嫁としての苦悩(笑)                                   

嫁姑のわだかまり(汗)等など

 

様々なことを経験しながら

常に自分とは何か?

自分が出来る事は何か?

問うてきた。

 

紆余曲折あるものの

全ては我が血となり肉となり

気がつけば・・・いつも身近にピアノがあり

 

厳しい先生についたり 音大に行かずとも

今はピアノ教室を経営している。

 

今まで出会った・・・のべ200人の生徒さん達に感謝しながら・・・

 

日本中に・・・

世界中に・・・

ピアノをこよなく愛する人々で溢れて欲しい!

おじいちゃん♡おばあちゃん♡になっても・・・

ピアノをポロンポロンと奏でて欲しい!

ピアノを通じて愛に溢れる地球になって欲しい!

 

 

・・・という想いで・・・・

 

 

ピアノ・キーボード・シンセサイザー担当として・・・

今もなお バンド活動。

一人だけの演奏ばかりでなく

 

 

様々な人や楽器とのコラボの素晴らしさ・大変さ(汗)を楽しんでいる。